【あっちこっち尾道】世羅にある荘園跡地に行ってきた!

みなさん、こんにちは!進学塾ライトアップ、代表の西川です。

9/19月はお休みです。18日は塾の片付けをしておりましたが、台風14号による猛烈な風で商店街が吹き飛びそうです。不要な外出はせずに、このブログでも読みながら、お家で勉強を頑張ってください。

さて、本日も写真満載で、張り切っていきたいと思います!

お盆休みに、生徒の皆さんにお話出来るネタが増えればいいなと思いながら、とある場所に行っておりました。

世羅にあった「太田庄(おおたのしょう)」と呼ばれる荘園と、それを管理していた「今高野山(いまこうやさん)」です!

こちらは平安時代以降に『荘園』がつくられていた場所です。実際に歴史館に入って見ると、平安時代以外の色々な歴史も知ることが出来ました。本日はこちらを見ていきましょう!

まずは歴史のおさらいをしよう!

では、中2以上の皆さんに質問です。

『荘園』って何でしょう??

もう少し質問を追加しましょう。

荘園が誕生するきっかけとなったのは、奈良時代に出された何という法律でしょう?

そして、荘園領主から特権をとりあげたのは誰でしょう??

ぱっと答えられますか?それとも、復習が出来ていなくて全く思いつきませんか?

・・・

・・・

はい、ということで、皆さんが使っている教科書を見ながら、答えを確認していきましょう!

以下は、教科書の奈良時代のところにある記述です。

 朝廷は、不足する口分田を補うとともに、租の収入を増やそうと、人々に開墾をすすめました。(中略)しかし、開墾があまり進まなかったため、743(天平15)年に墾田永年私財法を出し、新しく開墾した土地は、租を納めることと引きかえにいつまでも私有地としてよいことにしました。

 貴族や大寺院、郡司などは、現地の農民を使って開墾を行ったり、農民が開墾した土地を買い取ったりして、盛んに私有地を広げました。貴族や寺院のこのような私有地は、やがて荘園とよばれるようになりました。公地・公民の原則は、こうしてくずれ始めました。

『新しい社会 歴史』(東京書籍)p.43 より引用

ということで、まず2つ目の質問の答えが出ましたね。正解は、743年に出された「墾田永年私財法」です。

これによって、天智天皇のときに出された「公地・公民」(=土地も人民も全て天皇のもの)という原則が崩れ、天皇のものではない「私有地」を持つことが可能になりました。それが荘園です。

もう少し、荘園に対する記述を教科書から探してみましょう。

 11世紀ごろから、地方の役人や僧、武士などが土地(荘園)の開発を進め、皇族や貴族、寺社(寺や神社)などの有力者が持ち主(領主)となり、朝廷への税を免除されました。土地の開発者は、荘園の農民から年貢を集めて領主に納めるかわりに、荘園を支配する権利も認めてもらいました。国司が支配する土地(公領)でも、武士などが犯罪の取りしまりや年貢の取り立てを任されるようになりました。

 このような中、11世紀の後半には特に武士が力をつけ、荘園や公領に館を築いて、地方の社会の中心になっていきました。

『新しい社会 歴史』(東京書籍)p.65 より引用

荘園の持ち主は領主と呼ばれていてます。領主になるのは、都にいる皇族・貴族・寺社など、位の高い貴族たちです。しかし、貴族たちが都にいながら地方の土地を管理・開発することは出来ないので、持ち主というのは名ばかりです。実際には、地方の役人・僧・武士(名ばかりの領主と区別するため、『開発領主』とも呼ばれます)が、荘園を管理・開発し、その下で農民が働いています。

本来、田んぼからお米が取れれば、「租」という税を納めなければいけませんが、税を取り立てる役人よりも、領主である都の貴族の方が位が高いため、偉い人から税を取ることが出来なくなります。結果、荘園は朝廷への税が免除されています。

ということで、「荘園って何ですか?」に対する答えの例としては、「役人からの税の取り立てを免れるために、都の貴族や寺社を領主とした私有地」ということで良いと思います。

鎌倉時代になると、幕府の地頭と、領主の間での衝突があったようです。

 全国の荘園や公領の地頭に任命された武士は、板ぶきの住まいで、質素な生活を送っていました。(中略)

 農民は、年貢を荘園や公領の領主に納めていましたが、地頭が領主に断りなく土地や農民を勝手に支配することが多く、地頭と領主との間でしばしば争いが起こりました。この争いは幕府によって裁かれ、土地の半分が地頭にあたえられることもありました(下地中分)。こうして地頭は、荘園や公領で領主と同じくらい強い力を持つようになっていきました。

『新しい社会 歴史』(東京書籍)p.70 より引用

武士が力を持つことになるようになった結果、荘園で働いている農民たちは、貴族と武士から二重支配に苦しんでいたようです。

ちなみに、この地頭と領主の争いに関しては、今高野山にもパネルがありました。

では、始めの質問に戻りますが、この免税の特権を廃止したのは誰でしょうか?

その人は農民出身でしたから、この二重支配を良く思っていなかったんでしょうかね。

さぁ、教科書を確認してみましょう。

 豊臣秀吉は、地域によってばらばらだったものさしやますを統一しました。そして、田畑の面積や土地のよしあしを調べ、予想される収穫量を。米の体積である石高で表しました。これを太閤検地といいます。(中略)

 検地では、実際に耕作している百姓が検地帳に登録されました。百姓は、土地を耕す権利を保障され、石高に基づく年貢を納めることが義務付けられました。(中略)一方、公家や寺社などの荘園領主は、それまで持っていた土地に対する権利を失いました。

『新しい社会 歴史』(東京書籍)p.110 より引用

ということで、正解は、「豊臣秀吉」でした!

みなさん、3問とも答えられましたか?

ここまで頑張って読んでくれた生徒さんの、古代から中世までの土地制度・税制度の復習になってくれたなら嬉しいです!

さて、教科書を使ったお勉強はいったん終了!ここからは私が撮って来た写真を見ながら、太田庄がどのような場所だったのかを確認していきましょう!

世羅一帯の歴史がわかる「太田庄歴史館」は、専用駐車場から徒歩2分ほどのところにあります。

真言宗を開いた空海(弘法大師)がこの地を訪れ「今高野山」を開基したのが822年ということで、今年がちょうど開基1200周年という節目の年です。そのため、常設展示の他に「今高野山の歴史」という特設展示も、期間限定で展示されています。

館内の展示物は撮影禁止だったため、写真はありませんが、入口で渡された資料にはQRコードがついていて、その展示物の詳しい説明をスマホの画面で確認することも出来ます。学校の調べ学習や、夏休みの宿題の自由研究にもいいかもしれませんね。

常設展示を見ていると、旧石器時代のナウマンゾウの歯の化石が見つかったことや、「頓迫(とんざこ)遺跡」と呼ばれる縄文時代の遺跡が見つかったことが分かりました。さらに、弥生時代の石包丁や銅鐸、古墳時代の埴輪や須恵器、そしてそれ以降の仏像が多数展示されていました。さらに、室町時代の備前焼や、江戸時代につくられ太平洋戦争の金属が不足していた頃に軍に持っていかれそうになったお寺の鐘などもありました。

さらに、今の天皇陛下が大学生時代に、大学の卒業論文のテーマが「瀬戸内海の海上交通史」だったため、世羅にもいらっしゃったそうで、そのころの写真なども見ることができました。

さらにさらに、歴史館の入り口で頂いたお持ち帰りの資料の中には、先ほどご紹介したQRコードの他に、A1サイズ(A4の16倍!)の巨大なカラー資料も入っていました! こちらはどうやら2002年から2014年にかけて行われた、「中国横断自動車道尾道松江線」、通称「やまなみ街道」の工事の際の発掘調査資料のようです。こちらの資料によると、御調から島根県の松江にかけて、世羅と同様に、旧石器から江戸まで幅広い時代の遺物が出土したようです。

荘園目当てで、「平安時代のことがちょっと勉強になればいいかな」くらいの軽い気持ちで行ったのですが、完全に勉強不足でした!古代の日本史や考古学に興味がある生徒さんからしたら、きっと世羅は宝の山なんじゃないでしょうか。

まだまだ、勉強しないといけないことがあるなぁ~。

さて、肝心の荘園に関してですが、歴史館入り口横の映像コーナーに行くと、約7分間にまとまった紹介動画が見られるのでこちらが分かりやすいです。

もともとは地方豪族の橘氏が所有していた土地が、平安時代末期に平氏に寄進され、そこからさらに後白河法皇(出家してお坊さんになった上皇のことを法皇と呼びます)に寄進され、平家が滅亡した後は、真言宗の総本山である高野山に寄進されたのだそうです。

ちなみに(何度も話が脱線して申し訳ありません)、常設展示の中にはこの後白河法皇の直筆のお手紙もありますよ。教科書やアニメ『平家物語』に登場した大物が実際に書いた手紙だと思うと、少し不思議な感覚になります。

世羅で集められた年貢は、陸路で尾道へと運ばれ、そこから船で都まで送られていたようです。太田庄の荘官がお坊さんに土地を寄進して作られたのが、浄土寺のすぐ隣にある海龍寺ということなので、ここにも何かつながりがあるようです。

また、いくら水源があって米どころとはいえ、世羅から尾道まで陸路で荷物を運ぶのは、さぞ大変だったんじゃなかろうか、とも思いました。そこはまた次の機会に調べてみたいと思います。

荘園目当てで行ったのですが、教科書に出るような単語・人物と色々な関わりがあることが分かり、これで大人200円、小・中学生100円というのは、・・・なんというか、もう喜んで払いますよ、という感じです。笑

歴史館から少し坂を上ったところには、築170年の、宿坊という建物を改修して作ったオシャレなカフェがあります。駐車場に、きれいな服装をした女性たちがたくさんいたので、「オシャレな女性に荘園が人気なの??」と不思議でしたが、お目当てはこちらのカフェでしたね。笑

また、日がえり温泉もありましたので、「わざわざ世羅までお勉強に行く」、というよりは、「カフェでスイーツ!や、ハイキングからの温泉!・・・のついでに歴史館」という感覚で行ってもいいかもしれません。

伝説の扱いがまさかの・・・

歴史館の中で「今高野山」がこの場所に作られた伝説について、紹介をされていました。私の記憶が確かならば、こんな感じです。

空海(弘法大師)が世羅に立ち寄って、宿を借りて眠っていると、外から何か気配がする。外に出てみると、ある岩の上に神様が2柱(神様を数える単位は『柱』)いらっしゃった。そこで、地元の人たちに「ここにお寺を作ると良いですよ」とアドバイスをし、それが今高野山になった。

その説明文を読んで、「その岩すごい!なになに・・・影向岩(えこういわ)って名前なのか。実際に見られるなら見てみたいな~。」と、見るのが楽しみになりました。

そして、歴史館を出て、このゆるやかな上り坂を上っていると、道の端に何やら怪しげなQRコードが・・・

え?岩というよりも、何の変哲もない道の一部だけど・・・まさかこれが、あの伝説の影向岩じゃないよね??

と、おそるおそるこのQRコードをスマホで読み取って、リンク先のページを開いて見てみました。

すると・・・

まさかの、こいつがその岩だった~!!

ということで、道端でありがたい岩を指さしながら爆笑してしまいました。(神様ごめんなさい)

坂を上り切った先には、鳥居と橋があり、その先には先程紹介した2柱の神様を祀った神社があります。

神様には縁結びや健康、交通安全などの、ご利益の得意技があります。この神社のご利益はちゃんと調べていませんが、うちの生徒さんたちの成績アップをちゃんとこの2つの神社でお祈りしてきました。

また、大学の歴史の授業で、明治時代の始めから第二次世界大戦終結まで、冠婚葬祭が神社でよく行われていたが、天皇を神様とする国家神道は戦後GHQによって否定され、今はその文化が廃れてしまった、と習いました。

そして、戦前まで神社が人々の生活に大きく関係していたことを示すのが、神社の境内にある、戦争で亡くなった方の「慰霊碑」だとも習いました。だから、私は神社に行くとついついどこかに「慰霊碑」がないかと探してしまいます。

やっぱりこちらの神社にも「忠魂碑」と呼ばれる慰霊碑がありました。明治時代の人たちは、日清戦争や日露戦争で亡くなった家族をこちらに祀って、みんなでその霊を慰めていたんでしょうね。

ということで、塾の先生が頑張ってまとめてみた、「大人の社会科見学レポート」は以上です!

そもそも尾道にあるお寺自体も、半日ほどかけて一通り巡って、看板を写真に撮るくらいはしているのですが、その歴史についてはまだ十分には調べ切れていません。ですので、ベッチャー祭の「一宮神社」や、花火大会の「住吉神社」、「浄土寺」や「千光寺」などもぜひ、時間を作ってちゃんと調べたいと思っています。このあたりは、土堂小や長江小出身の生徒さんたちの方が、私よりも詳しかったりします。お家の方が、お寺の住職さんという生徒さんも、うちにはなんと複数名いらっしゃいます。ぜひ生徒さんからも色々と情報をもらって、普通の塾の先生から、尾道のお寺に異様に詳しい塾の先生へとレベルアップしたいと思っています。

また、次回の社会科見学レポートにもご期待ください!

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