【雑談】教室から「共通言語」が消えた日〜テレビからSNSへ、過渡期の教育を考える〜
みなさん、こんにちは!進学塾ライトアップ、代表の西川です。
9/26(土)は10時から、9/27(日)は8時~13時まで教室を開けています。いよいよ中間テスト(広大三原の生徒さんにとっては前期末)です。頑張りましょう!
今回のブログは、私が朝、子どもを幼稚園に送っている間、社内で流れている情報番組を聴きながら、「最近のテレビって・・・」と、ぼんやりと考えた内容をまとめたものです。いつものごとくダラダラと書いておりますので、お時間のある時にでもお読みください。
昔は、テレビが学校の「空気」を作り上げていました。
前日の夜に放送された番組の話題が、翌日の教室のヒエラルキーやトレンドを決めていました。私が子供の頃は、ONE PIECEのルフィの真似をして「ゴムゴムのムチ!」と友達のけつにキックを入れる子がいたり、クラスメイトが少しでもテレビに映れば、録画した友達の家にわざわざ集まって鑑賞会が開かれたりしたものです。ハイパーヨーヨー、デジモン、たまごっち。メディアが熱狂を作れば、それをこっそり学校に持ってくる生徒がヒーローになり、話題の中心になりました。
ほんの10年ほど前まで、教室には間違いなく「共通言語」がありました。「やられたらやり返す、倍返しだ!」と言えば誰もが「ドラマの主人公のあの人のセリフだ」と意味を分かってくれたし、お笑い芸人の「安心してください」「なんて日だ!」というフレーズや、オリンピック金メダリストの「何も言えねぇ」という言葉は、クラス全員に通じる鉄板のコミュニケーションツールでした。
しかし同時に、テレビは「いじめの土壌」も作り上げていました。 芸人が笑いを取るために使っていた「バカ・デブ・ブス」といった容姿や失敗をいじるフォーマットを、子供たちは教室に持ち込みました。テレビという免罪符を利用して、笑いのネタとして消費される子が確かにいたのです。結果的に、PTAなどからの激しい批判を受け、テレビのお笑いは徐々に牙を抜かれ、誰も傷つけないクイズ番組やトーク番組が主体となっていったと言われています。
では、テレビが「健全化」された今、学校の流行や価値観は何で作られているのでしょうか。
もし現在もテレビが教室の空気を作っているとすれば、子供たちはクイズ番組で正解を勝ち取るインテリ芸能人に憧れているのでしょうか。「勉強ができること=かっこいい」という価値観は一見素晴らしいように思えます。もちろん、学力が高いのは努力の証でもあり、素晴らしいことは間違いありません。
しかし、それは同時に「知識で相手を打ち負かすこと(論破)=正義」や、偏差値の高さが人間の優劣を決めるといった、歪んだヒエラルキーを生んではいないでしょうか。相手の感情を無視し、理屈でねじ伏せたり、学力でマウントをとったりする。その「正しさ」や「賢さ」が人間の価値として絶対化されているとすれば、それはかつての容姿いじりとは違うベクトルで、息苦しい教室を作り上げています。(私も塾講師として、その一端を担っている可能性があるという自覚はあります。)
いや、現在の教室の空気を作っている主役は、すでにテレビではなく、先鋭化されたSNSでしょう。ここには、かつてのテレビ時代とは比較にならないほど深い闇と、同時に計り知れない希望が混在しています。
現在、授業中に生徒たちの興味を惹こうと、身近なアニメやスポーツの話を振ってみても、数人しか反応しません。かつてのように「クラスの誰もが知っている話題」は、今の学校やクラスには存在しないのです。(かろうじてほぼ全員に通じるのは、最近会ったニュースか大谷翔平くらいです。もしかしたら、彼すらも知らない子たちもいるかもしれません。)
なぜなら、AIのアルゴリズムが個人の趣味嗜好に合わせて最適化された動画を見せ続ける結果、隣の席の友達同士でさえ、見ている世界が完全に異なっているからです。 最大の問題は、この「見えない細分化」によって、子どもたちの見ている世界に大人が介入できないことにあります。テレビ時代は、良くも悪くも大人と子供が同じコンテンツを共有し、「あの真似はしちゃダメ」と指導する基準がありました。しかし今は、子供がどんなインフルエンサーの、どんな価値観に影響を受けているのか、大人は全く把握できません。
YouTubeやTikTokで流れてくる爆買い、過激なドッキリ、公共の場での非常識な迷惑行為。これらが「再生数を稼いでいるから」という理由だけで「かっこいいもの」「正解」として子供たちの目に映り、「アテンション(注目されること)=人間の価値」となってしまったら、世の中はどうなってしまうのだろうかと危惧してしまいます。誰も傷つけないテレビ番組の裏側で、大人の目の届かないアルゴリズムの底で、子供たちの価値観は全く別の何かへと変質しているのかもしれません。
一方で、SNSがもたらすのはそうした負の側面ばかりではありません。うまく利用すれば、そこには無限の可能性が広がっています。 今、留学経験がゼロでも、SNSを通じて勉強をしてネイティブ並みに英語が話せるようになる人が出始めています。また、私が所属するソフトボールチームでも、現役選手やトレーナーのYouTubeチャンネルを見て勉強し、どんどん上達して活躍している人がいます。大学入試に向けた予備校の先生の動画も、コロナの頃を機に爆発的に増えました。自ら学びに行く姿勢さえあれば、これほど恵まれた環境はありません。
ただ、こうして個人の価値観や興味がバラバラに細分化されているからこそ、「学年ごとの一体感」という、かつては学校にあった横のつながりは、どんどん薄れつつあるように思います。
共通言語を持たない子供たちを、今までのように「同じ年齢だから」という理由だけで一つの教室に集め、横並びの授業を行うことには、すでに限界がきているのかもしれません。もしかしたらこれからの時代は、学年で一律に区切るのではなく、能力に応じて飛び級をしたり、同じ学年を繰り返したりするような、柔軟な教育の工夫が求められているのではないでしょうか。
私たちは今、全員が同学年で横並びの教育から、一人ひとりに合わせた「個別最適化された教育」へと移行していく、まさに過渡期の前段階にいるように感じています。


